「異常気象」は本当か?

ゲリラ豪雨というのですか、とにかく今年の夏は西日本を中心に自然災害が甚大なようで。しかしこれも環境問題はなぜウソがまかり通るのかの武田邦彦に云わせると、そんなのは地球の歴史の長いスパンで見た場合、小さな波の変動に過ぎない、みたいな見解になるでしょうね。人間が経済活動などでCO2を出したぐらいでどうにかなるようなヤワな地球じゃござんせん、と。これには無知な自分も半ば同意。証拠ないのによく騒ぐよねといつも思う。もっとも、地球温暖化や相次ぐ異常気象が主に人間の営みによってもたらされている、などということの証明は絶対にできないのです。それは、「おそらく関係しているであろう」という程度のお話にしかならない。そもそも、人類が歩んできた道のりなど、地球のそれに較べればゴミのようなものなんでね。地球の側からすると、「おまえらそんな狭い時間軸で何騒いでんだ」ぐらいの勢いなんではないですかおそらく。自戒の意味も込めて、もうちょっと大きな視点をもちたいもの。たとえ人間のせいで地球環境がおかしくなっているとしても、自分たちの生活が駄目になってきたからいよいよ考え直さなきゃな、って重い腰をあげて転向するのだけはみっともないので厭です。正道じゃない。宮崎駿も言ってるけど、自然が自分たちの役に立つから大事にするのか。それは何か違うだろう、と。「あるべき姿」といっては美しすぎるけど、<自然対人間>みたいな西洋的価値観ではなく、自然の中の人間、人間も自然の一部ということを実感できる社会が理想なのではないか。だから、木を植えよ!の宮脇昭みたいな実践的な人物が今ほんとうに求められていると思う。

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川上未映子ってワケわかんないね

川上未映子ってワケわかんないね。でも嫌いじゃない。わるくない。最近は有名文学賞を外国人が受賞したり、文学そのものがマンネリ化してきたのか、あるいは文章の基礎的レベルの低下をごまかすようですらあるけれども、表現幅が社会に対応して拡がってきた、押し拡げられてきたともいえるのか。それは新しい知性とか感性というステキなものではなく、人間がすこしずつ物質的に豊かになり、科学技術を発展させ、経済活動を行っていく途中で、その時々に表れるある種の「型」のようなものかなと思う。アメリカ人は英語をしゃべり、日本人は日本語をしゃべる。日本の中でも、関西の人は関西弁をしゃべる、女子高生は女子高生の言葉をしゃべる、老人は昔の言葉遣いでしゃべる。様々な言語のまとまりがあり、そうしたまとまりの一つとして、川上未映子的な女性的でくだくだしいヒステリックな文体(といっては失礼か)がある、と。ただ、恋空のような携帯小説とか数年前の綿矢りさ、金原ひとみなどが出てきたときにも感じたけど、情報通信の発達によって誰でも手軽に創作できるようになったネット文学の膨れ上がったマグマを、出版社やマスコミが煽り立ててきた面は強烈にあるだろうね。だから、それは文法的文章的な意味での文学を貶めたろうし、一度くだらないもののくだらなさを開放すると、二度と元の次元に戻ってこないというアレがあるのでしょう。文学って雰囲気というか風格だと思うのですね。べつにオチャラケていても文学だなーと感じる作品もあるし、格調高い文章を書けばそれで文学かというとそうではないと思うけど。つまり、彼・彼女たちが出てきた理由は、過去の偉大な詩人や小説家たちによってあらゆる美文、あらゆる格調高い文章、あらゆる恋愛、あらゆる詩的な言いまわしが網羅されたために、やむなく逸脱したものを書くことになった、というわけではないだろうと。その、「やむにやまれず感」が本物の文学であると個人的に思うところで、それを今の小説からは感じ取れないので全然読む気になれないわけです。本のタイトル見ただけで底の浅さが見てとれるようなのが多い。恋愛モノにしても、ジャンル的に過去の名作とカブる点が多々あるとしても、何かしら真に迫るものが書けるはず、誰か書けないんだろうかな、と思う今日このごろです。

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変身

フランツ カフカ の、変身。“平凡なセールスマンのグレゴール・ザムザは、気がかりな夢からさめたある朝、一匹の巨大な褐色の毒虫へと変わった自分を発見する。”

なぜカバーが松山ケンイチなのか意味不明だが、どう評価すべき本なのかね。悩む。悩むほどのややこしさはないのだけれど。直観的には、ザ・フライみたいなイメージ。主題的には、認識の相克ということ。自己の認識と他者の眼とのあいだに横たわる軋轢みたいなものを扱った作品。ほんとに「作品」という言葉が合う小説で、寓話的実験的な作り。

ものすごく平たく云うと、世の中絶対的真理とか真実なんてものはなくて、それを語る奴は嘘ですよ、っていうことなんじゃないか。鳥は人間の見えない色彩を見ることができるんだよね。

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勝負―人生は日々これ戦場

升田幸三の、勝負―人生は日々これ戦場

ところで、将棋には升田式石田流という戦法があるけど、あれ石田和雄九段が考案したんですか? っていう質問をどこかで見かけてちょっとウケたな。石田流は、江戸時代の盲目の棋士、石田検校が編み出した戦法。盲目で将棋を指すなんて凄いしカッコいい。プロの目隠し将棋というのは尋常でなく凄いと思う。目隠ししたまま何面も指すんだからねぇ、参ります。

脱線したが、升田幸三という棋士は、これまた伝説的で、人間的に濃密な魅力があった人ではないかな。無類の囲碁好きで話し上手、人付き合いも広範で、何事も好き嫌いがはっきりした人であったらしい。その分、一度認めた人物とはとことん親しくしていたようだ。そんな升田幸三の人となりは本書を読んでもらえばわかると思うけれど、その他の内容としては、将棋の駒を「人材」に見立てて語るところが面白かった。たしかに将棋は一度取った駒を再利用できる、世界でも稀なゲーム。捕えた敵を打首獄門とはせず、役に立つものなら使ってやろうという度量の広いゲームなのだ。この特有のルールが将棋を奥深く面白くしている一番の要因だろう。

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「テクニカルアナリスト」その玄妙なる職人

相場の世界には、「テクニカルアナリスト」なる職種が存在する。テクニカルの解説が主な仕事のようだが、要は過去に起きた事柄に後付け講釈をたれるものだ。現在進行形では判り得ないチャートも、「Aが底でBが二番底」と事後であれば完璧にとはいわないまでもつじつまの合う解説が可能である。

ズバリ斬り捨ててしまうと、テクニカル分析は占いではないが、テクニカルアナリストは占い師同然といっても過言ではあるまい。彼らが一個人としてトレードする分には芸術になり得る技法も、雇われ人になると一変、占い師となる。もっとも、個人的に判断のつかない局面においても否応なく相場見解を求められるその立場が、こじつけがましい予測を彼らに強いる多少の要因ではあるだろう。

一度彼らテクニカルアナリストの相場予測を注意深く読み直してほしい。だいたいメディアによく出てくる連中は仕事慣れしており、切れ者ぞろい。口車が達者で決して言質を与えず、結論を微妙なニュアンスの中に溶け込ませるのに長けているアナリストは優秀である。

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「できる人」はどこがちがうのか

斎藤 孝の、 「できる人」はどこがちがうのか。「できる人」になりたいがために読むはずの本だが、文庫本200ページ程度で語りつくせる話でもなく。。。

本書の「できる人」のさすところは、“領域と領域の間を「またぎ越す」普遍性のある応用力”のある人、ということらしい。右脳的ともいえるのかな? 普遍性というのは共通性と言い替えることもできるよね。他者との、知識や経験の共通分母、共通理解がないと「できる人」足り得ない。それがないと、ただのエゴイストになる。エゴはエゴで良いんだけど、人に認められるためには身につけるものは身につけなければならない。

知識は現代社会に溢れている。今の時代、一見なんら繋がりのないように見えるいくつかの物事を結びつける能力が求めれている。知恵。好きこそ物の上手なれというけれど、興味ある分野を掘り下げていくことで、それが複数の分野を「またぎ越す」ほどに、人は発明家となっていくだろう。

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日本一メルセデス・ベンツを売る男

前島太一の、日本一メルセデス・ベンツを売る男。ジェシー・リバモアの欲望と幻想の市場の中で、「人が欲しくもない物を売りつける商才を持つ男」が出てくるけど、率直にいってそのようなトレードのヒントになる要素を期待して読んだ俺のもくろみはもろくも崩れ去ったわけだが、この楽天の三木谷浩史似のシブイおじさま、さすがに時間管理などは徹底している。要は、セールスは誠心誠意やんなきゃトップになれん、と。当たり前のことが書いてある。

しかしそこにくると、トレーダーという職業は誠心誠意やったからといってそれに比例して成果がついてこないので辛いのだね。たしかに一生懸命やらなきゃいけないんだけど、それは例えば「ファンダメンタルズを勉強し尽くす」とか「一日10時間みっちり相場をモニターする」とかいうことでは報われないのだ。他人が学んでいないことを学ぶことが大事で、そのためには考え方や感じ方を変えなければならない。

否、エド・スィコータ風にいえば、勝者が考え方や感じ方を望ましい方向に変化させるのではなく、考え方や感じ方が優れる者が勝つ。努力なしには勝者になれないが、才能が大前提。

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ガチャピン

Googleで「ガチャピン」で検索すると上部の画像検索結果の左側に表示されてるガチャピンもどきがキモイ件。なにかよほどのガチャピンふぇちなのだろう。右側の空手画像の目潰しキックもなかなかの衝撃だが、左の方には勝てない。

それはそうと、ゴルフの石川遼は、よくガチャピン色のズボンを履いてゴルフしてるよね。なにかよほどのガチャピンふぇちなのだろう。

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トレンドを判断する方法

あらゆる相場においてトレンドを判断することは極めて容易である。一番判りやすくするためにラインチャートを表示する。画像はクリック証券【FX】の『はっちゅう君』ポンド円60分足。

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チャートの角度が上向きなら上昇トレンド、下向きなら下降トレンド、横ばいならトレンドのないレンジ。そんなの当たり前だろうと思われるかもしれない。そう、当たり前なのである。あらゆる時間枠においてトレンドを判断することは実に簡単なのだ。こんな馬鹿馬鹿しい話をするのは、トレンドを判断・判定する作業は、すくなくとも現代の多くのトレーダーが考えているほどには、トレーディングにおいて重要事項ではないからだ。

連日、日経平均株価が上がる。相場の基調が強いことぐらい小学生でも判る。それだけのことだ。 トレンドは後から判明する事実であって、過ぎ去った事象にとらわれすぎて良いことはない。たしかにテクニカル分析は必要であり、過去のパターンが未来を占ううえで役立つことは事実である。曲解されているのは、「現行のトレンドに乗ることが利益に繋がるから、まずはトレンドを判断することが大事」とする考え方である。自分の考えでは、たしかに「現行のトレンドに“乗っている”ことが大事」だとは思う。

意味するところは、トレンドの初期に乗ることであり、トレーダーがほんとうにしなければならない仕事は、トレンドの現在を分析・判断することではなく、トレンドの発生を捉えるための研究なのだ。

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小さいノート

外出時に片手で持ち運びできるので便利かと考え、KOKUYOの小さいノートを購入。紺色のより小さいノートのほうが片手でもしっくりくる感じ。

もう一方のは、ドットが入った「東大合格生のノートのとり方から生まれた美しく書くためのCampusノート」だそうである。ドットが文頭をそろえるときや図形を書くときの目印になる、云々。東大合格生のノートはかならず美しいとか、そんなことはないと思うんだけど、それ以前に片手で持つにはちょっと大きすぎる。

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